SUPERNATURAL-HEALTH-THROUGH-THE-ROASTED-LAMB-Full-1116x490 焼かれた子羊によって得られる超自然的な健康

主の晩餐を食べることは重要ですか?ひとかけらのパンを食べるだけで、本当に偉大な奇跡を体験できるのでしょうか?

忘れないでください。一度の食べる行為によって、人は堕落しました。人は誤った木から食べてしまったのです。アダムが善悪の知恵の木から食べたことにより、人の堕落、貧困、疾患、病、死を伴う全ての呪いが入り込みました。

今日、第二のアダムがカルバリーの木の上で成し遂げた御業を分け与えられることで、あなたは第一のアダムによる誤った木での行為を逆転させることができます。第1コリント11:23-25で、パウロはこう語っています。

第1コリント11:23-25

私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」

杯の中のぶどう酒は、私たちの罪の赦しのために流された主の血を象徴することは、皆さんもご存知でしょう。では、パンはどうでしょう?パンは私たちの体が健康になり、完全なものとされるために砕かれた主の御体を象徴しています。ですから、信仰によってパンを食べる時、私たちはイエスのいのち、健康、完全さを分かち合っているのです。しかし、食べること自体が非常にありふれた行為であるため、知的かつ論理的な私たちには、それを理解することができないのです!私たちには、シンプルな神の方法を理解することができません。ひとかけらのパンと杯を見て、私たちは「薬剤や医者と比べたら、これらは何だ!これが癌を取り除くというのか?これによって長生きできるというのか?ただのパンのかけらじゃないか!ただのジュースじゃないか!」と自問自答するのです。

弱いものを用いて、強いものを混乱させるのが神の方法であることを、私たちは忘れてしまいます。

神は、賢いものを混乱させるために愚かなものを用いられます。私は薬に反対しているのではありません。ぜひとも、医者から処方された薬の服用を続けてください。しかし、少なくとも薬への敬意と同じくらいの敬意を、主の晩餐にも示していただきたいのです。

私は、薬剤や医者の存在を神に感謝しています。しかし、それらは人の努力の成す業に過ぎません。先日、私は次の聖書箇所を読みました。「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」(イザヤ2:22)しかしながら、聖餐式は人ではなく、神により備えられたものです。これは人の血ではありません。神の御子の血です。私たちが分け与えられるのは、神性なる血なのです。もし、イスラエルの民が焼かれた子羊を分け与えられたことで、ひとりもよろける者がいなくなったのであれば(詩篇105:37)、神性なる子羊を分け与えられる私たちが、癒されて良くならないことなどあるでしょうか!

部位には部位を

何年も昔から、人は薬剤を研究してきました。たとえば、漢方薬には「体内に病に犯された部位がある場合、それが肝臓であるならば、動物の肝臓を食べると良い」という理論があります。

中には、試験前に子どもに豚の脳みそを食べさせる親もいます。なぜそんなことを知っているかって?私も母親に豚の脳みそを食べさせられたからです!彼らは「部位には部位を」という考えを信じているのです。

私は漢方薬に賛成も反対もしていません。「部位には部位を」という考えを、科学的真理であると言っているわけでもありません。しかし、彼らは一体、何からこの考えを得たのでしょうか?これまでの過程のどこかで、人はこの考えを学びました。その原点の一つが過越の食事であることについて、次に皆さんと分かち合いたいと思いますが、その前に、薬剤に関するもう一つの原則についてお話しましょう。それは「毒には毒で打ち勝て」という原則です。

毒には毒を

たとえば、あなたが毒蛇に咬まれたとしましょう。あなたを助けるために、医者は何を注射するでしょうか?同じ毒から作られた抗毒素です!毒には毒で打ち勝つのです。天然痘や水疱瘡に対抗するために、医者はお子さんに何を注射するでしょうか?薬剤ではなく、微量の病原菌を注射して、体が免疫をつけられるようにするのです。

では、この医学的原則はどこからやってきたのでしょうか?荒野にいたイスラエルの子どもたちを覚えていますか?彼らは蛇に咬まれました。神に向かって泣き叫ぶと、神はモーセに青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけて高く掲げるようにと言われました。聖書には、蛇に咬まれた全ての人は、その青銅の蛇を仰ぎ見ることで癒されたと記されています。

あなたの病が十字架の上で裁かれたことに目を向けよう

神はイスラエルの子どもたちに対して、蛇に咬まれた傷跡が十字架につけられた光景に目を向けることを望んでおられました。それは何を描写するのでしょうか?イエス・キリストです。なぜ青銅の蛇だったのでしょうか?青銅は裁きを示します。言い換えると、あなたはイエスが十字架の上で、あなたの病と共に裁かれたことに目を向ける必要があるのです。もし肝臓に問題があるのなら、イエスの肝臓があなたの病のために打ちのめされた光景に目を向けてください。あなたの病のために、イエスの体が打ちのめされたのを見た時点で、もはやその病はあなたの体内に留まることはできません。なぜなら、神が同じ罪を二度罰することはないからです!

私たちの身代わりとなったイエス・キリストと共に、私たちの罪は罰せられました。それ故、神の聖さと義は私たちの味方となり、正義、赦し、解放がもたらされたのです!一部の絵画が描くような、十字架につけられた清潔かつ衛生的なイエスに目を向けても、あなたの益にはなりません。

生ではなく、焼かれた状態で食べよ

過越の子羊についてまず学ぶのは、生で食べてはいけないということです。

出エジプト記12:9

それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。

言い換えると、パンをとりながら「あぁ幼子イエス、神の子羊よ。あぁイエス、麗しきイエスよ…」と言うことはできません。また、イエスのことを考える時、十字架につけられる前の主の御姿ばかりを思い浮かべることはできません。いいえ、このような方法では、聖餐式をとり、そこから受け取ることはできないのです。それでは、主を「生で」食べることになるからです。あなたには、イエスがあなたの罪のために罰せられ、あなたの病のために打ちのめされた光景を見る必要があります!その上で、あなたは癒しを受け取るのです。

聖書には、主の様相または顔立ちは識別できないほどだったと記されています。主の輪郭は、誰も経験したことがないほど損なわれました。(イザヤ52:14)つまり、主の御姿は変形し、おぞましく、醜い状態だったということです。十字架上の主に美しさはなかったと聖書は語っています。(イザヤ53:2)

だからこそ、神はメル・ギブソンが制作した映画「パッション」を祝福されました。彼は、うわべだけでイエスの苦しみを飾ろうとはしませんでした。十字架上のイエスを描いた絵画のほとんどは、非常にきれいな状態を描いています。そこにあるのは小さな傷だけで、主の顔立ちや輪郭も認識することができます。それらの絵画は、人々がイエスを「生」の状態で食べるようにと促しているのです。すなわち、人々が打ちのめされたイエスに目を向けるための手助けにはなっていません。

十字架上で、イエスはあらゆる腫瘍、癌の進行、身体的な変形、リウマチ関節炎など、全ての病気を背負われました。主の輪郭は想像を絶するほど損なわれたので、神は彼の御姿を暗闇の中に三時間も覆う必要がありました。その光景を見て、吐き気を催さない人は誰もいませんでした。メル・ギブソンでさえ、彼の映画は実際の光景と比べれば強烈さに欠けると言ったほどです。

水で薄めないで

ですから、生では食べないでください。水で煮るのもいけません。つまり、水で薄めたり、消毒したりしてはいけないのです。それを火で焼いて食べてください!イエスがあなたの病のために打ちのめされた光景に目を向けるのです!もし心臓に問題を抱えているのなら、パンを取る時、あなたの心臓の病のために、十字架上でイエスの心臓が打ちのめされた光景を見る必要があります。それを踏まえて食べる時、あなたの体に潜む心臓の病は、そこに留まる権利を失います!それは、この世の政府や裁判所からの要求ではなく、天の最高裁からの、王の王ご自身からの要求なのです!もはや、病が体内に留まり続けることはできないのです。

子どもがアトピー性皮膚炎と甲状腺の疾患から癒された

ケア・グループのリーダーの一人であるブライアン・パンは、非常に力強い証を私と分かち合ってくれました。最近、彼は別の教会に通う友人と会いました。この友人には四歳の娘がいましたが、その子は生まれた時から二つの大きな問題を抱えていました。その問題とは、アトピー性皮膚炎(皮膚の病気)と甲状腺の疾患でした。医師たちによると、どちらの症状も完治することはないとのことでした。

当初、彼女は注射を週に二回打っていましたが、その周期は週に一回になり、やがて月に一回になりました。そこでブライアンは友人に、娘と一緒に聖餐式をとるようアドバイスしました。またブライアンは、まず友人自身がみことばを蓄える必要があることも知っていました。なぜなら、信仰はみことばを聞くことから始まるからです。(ローマ10:17)そこで、ブライアンは私の著書「Health And Wholeness Through The Holy Communion(聖餐式によって得る健康と完全さ)」からの抜粋を読むよう勧めました。

ブライアンの友人は本の抜粋を読み、娘と共に、一週間に渡って毎日聖餐式をとりました。すると、その週末、娘はアトピー性皮膚炎から癒されていました。二週目の週末になると、甲状腺の癒しも体験しました。

驚いた医師たちは、子どもに何を施したのか、何の薬を服用させたのかを父親に問いました。この事例は、更なる研究課題として、イスラエルの医師たちにも注目されました。その時、彼らに対して「これは古代ユダヤの儀式ですよ…この子を癒したのは、あなたがたのメシアですよ!」と伝えられたら、どんなに良かったでしょうか!

今後、あなたが聖餐式をとる時、次の方法を実践してください。たとえば、白内障のような目の病を抱えていたとしましょう。パンを見る時、十字架上でイエスがあなたの目の病のために打ちのめされた光景に目を向けてから、それを食べてください。この方法で聖餐式をとる時、あなたは感謝の思いと主への愛に満たされて、聖餐式から受け取れるようになるはずです。

焼かれた頭を食べよ

出エジプト記12:9で、神は子羊の頭も食べなければならないと言われました。頭は、知力と知恵の象徴です。つまり、主の晩餐をとる時、あなたはイエスの知恵と知力を分け与えられるのです。

キリストの知性は完全です。十二歳の時に地上を歩まれた時でさえ、彼の理解力と返答の仕方を聞いた大人たちは驚いたと聖書には記されています。(ルカ2:46-47)その時、イエスは聖書を持っていませんでした。当時、神のみことばを聞くためには会堂へ出向く必要があったのです。つまり、イエスは耳で聞いたことを全て記憶していたのです。学生の皆さん、想像してみてください。講師が発言するたびに、それを記憶するのです!それも、たった一度聞いただけで!

また、歳を重ねたからといって、必ずしも物忘れが激しくなるとは限りません。キリストの知性を分け与えられることで、あなたの知力と記憶力はより研ぎ澄まされることができるのです。すなわち、主の晩餐をとることは、精神面においても健康でいるための助けとなるのです。

焼かれた足を食べよ

では、焼かれた足はどうでしょうか?その夜、なぜ神はイスラエルの民に焼かれた足も食べなければならないと言われたのでしょうか?彼らはかつて奴隷だったことを忘れないでください。奴隷だった彼らは、労働領域内の限られた範囲しか歩くことができませんでした。しかし、その翌日には砂漠の中を何百キロも歩かなければならなかったのです。だからこそ、神は彼らが強くなることを望まれました。聖書には、神が彼らをエジプトから連れ出した時、よろける者は誰もいなかったと記されています。

詩篇105:37

主は銀と金とを持たせて御民を連れ出された。その部族の中でよろける者はひとりもいなかった。

この聖書箇所において「feeble(よろける)」を指すヘブライ語は「lame(足の不自由な)」という意味も持つことをご存知ですか?言い換えると、主の民の中には足の不自由な者は誰もいなかったという意味を示します。エジプトから連れ出された老人たちの中で、杖が必要な者は誰もいませんでした!これは、老人たちも歩くことができるという若さのよみがえりを物語っているのです。

焼かれた内蔵を食べよ

次は内臓、腸の番です。なぜ、神はイスラエルの子どもたちに焼いた子羊の腸を食べるように言われたのでしょうか?それは、彼らの腸が強められることを神は望まれたからです。エジプトからの旅の間、彼らは荷物に詰め込んだ食料を食べなければなりませんでした。

「でもプリンス牧師、神は彼らにマナを与えましたよ。」

いいえ、マナは彼らが紅海を渡った後に与えられました。そこへ辿り着くまでには数日間かかりました。つまり、それまでの間、彼らは手持ちの食料で生き延びていたのです。それでも、腹を下した者は誰もいませんでした。彼らは焼かれた子羊の腸を食べたので、強い腸を持っていたのです!

尾骨痛が癒された

ここまでの内容を読んで、聖餐式が楽しみになりましたか?私は家庭で聖餐式をとる時、大きな聖餐式用のパンを用意します。それを口に含んで、主の頭、つまり主の知恵を蓄えることに思いを巡らせます。次に、キリストの知性を受け取ります。そして、また別の部位を食べながら、その部位が私の病と共に打ちのめされた光景に目を向けます。

二年前、私は海外滞在中に妻とレストランに行きました。座ろうとした瞬間、鋭い痛みが尾骨に走るのを感じました。その後は固い側面に座るたびに、この痛みを感じるようになりました。私は、この痛みのためにも聖餐式をとり始めました。パンをとるたびに、イエスの尾骨が私の痛みと共に打ちのめされた光景を思い浮かべたのです。その後、私はすぐに癒されたでしょうか?いいえ。一旦、ここで話を終わらせたいと思います。

あなたの信仰にプレッシャーをかけるものはない

その問題のために聖餐式を何回行って、いつ頃癒されたのか、私ははっきりと覚えていません。ただ、ある日、痛みがなくなっていることに気付いたのです。それから半年以上が過ぎ、今も痛みはありません。

聖餐式の持つ有益さの一つについてお話しましょう。それは、聖餐式をとる瞬間に、全ての癒しを受け取ることを信じなければならないというプレッシャーを感じる必要はないという点です。

マルコ11:24

だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

マルコ11:24は正当な真理です。その時、その場で癒されると信じるのも、癒しを受け取る一つの方法です。しかし、必ずしも全ての人がそのような信仰を持っているわけではありません。

それと比べると、聖餐式は異なります。私たちは聖餐式をとるたびに、ある日突然、完全に癒されていると気付く時が来るまで、少しずつでも症状は改善されていると信じていけるのです!

 

Copyright © 2020 Joseph Prince. All rights reserved.
聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会

本書は、国際著作権法に基づく著作権により保護されています。本書及び表紙は、著者からの書面による明確な同意を得た場合を除き、全体的・部分的を問わず、いかなる形においても複製が禁止されています。