the-kairos-year-of-right-time-right-place-pt2-full-1116x490 適切な時と適切な場所のkairosの年 パート2

2023年1月15日(日曜日)シンガポールのスター・パフォーミング・アーツ・センターで行われたジョセフ・プリンス牧師の礼拝メッセージ「適切な時と適切な場所のkairosの年 パート2」のです。このメッセージを通してあなたが励まされますように!

概要

  1. はじめに:イエスは最高の贈り物
  2. たとえ世界がさらに暗闇になっても、神はあなたのために好意的なシーズンを聖別しておられる!
  3. 今年kairosの瞬間を体験する上で、イエスに目を留めることが私たちの軸となる
  4. 奇跡とブレイクスルーの時はすぐそこまで来ている!
  5. 神の恵みがある所には神聖なる成功が見出される
  6. イエスの教会は霊の賜物の解放を通して繁栄する
  7. イエスの足元に留まることで主はあなたを適切な時、適切な場所へと導かれる
  8. 救いの祈り
  9. 最後の祈り

はじめに:イエスは最高の贈り物

友人、家族、同僚など、周りの人々とへ福音を分かち合えることは特権です。私たちにとって大切な人々を愛すことのできる最善の方法は、彼らにイエスを与えることです。私たち人間は、霊、魂、体など、全器官においてイエスを必要とするようにと神によって造られました。それらの必要は、この世が私たちに与えられるようなものではありません。

今年、主は私たちの周りの人々へ救いの贈り物を分かち合い、多くの救いの証人となるために適切な瞬間に私たちを置いてくださいます!

今年のテーマ「適切な時、適切な場所のkairosの年」は、あなたの2023年に備えられた神のご計画と目的に沿っています。あなた自身の計画すら神のご計画の中にあるのです。ですから、神に従い、神の流れに乗りましょう!神に従う時、あなたの旅は安息と平安に満ちたものになります。川に浮かぶ舟のように、神のみことばがあなたを導き、多くのkairosの瞬間を体験させてくださるでしょう。そのために、あなたがすべきことは、安息を得て、聖霊の導きと聖霊の促しに従うことです。

人生のどん底にいたある女性は、テレビをつけた時にプリンス牧師の恵みの福音を観てイエス・キリストに出会い救われました。あなたが人生のどん底にいる時、神はあなたをkairosの瞬間・好意的な機会へと導くため、テレビをつけるなどのような欲求や促しをあなたのうちに置くことができます。同様に、主は人生のどん底にいる人たちへ助けの手を差し伸べるために、あなたを促し、神の愛を与えるための器としてあなたを用いることができるのです。それらの促しに従う時、あなたは神の流れに乗っているのです!


たとえ世界がさらに暗闇になっても、神はあなたのために好意的なシーズンを聖別しておられる!

「私は再び、日の下を見た。

競走は足の速い人のものではなく、

戦いは勇士のものではない。

パンは知恵のある人のものではなく、

富は悟りのある人のものではなく、

愛顧は知識のある人のものではない。

すべての人が時('eth' - 'kairos')と機会('qarah')に出会うからだ。」
ー伝道者の書 9:11 新改訳(注釈は著者による)

「すべての人が時('eth' - 'kairos')と機会('qarah')に出会うからだ」について、「時」はヘブライ語では「eth」、ギリシャ語では「kairos」であり、「好意的な機会」を意味します。一方、「機会」はヘブライ語で「qarah」です。それら全てを合わせて、この箇所は主によって構成された適切なハプニングを指し示します。

たとえ世界がさらに暗闇になっても、神はご自身の人々が神の愛と素晴らしさを体験するために「kairos」のシーズン・好意的なシーズンを聖別しておられます。出エジプト記8章の10の災いの話においても、人々に対する神の御心を見ることができます。この話の中で、イスラエルの子どもたちを奴隷から解放しないパロへの罰として、神は10の災いを送りました。これらの災いはエジプト全土に影響を与えましたが、イスラエルの子どもたちはその全てから守られたのです。神は今日、それと同じ御業を私たちのために成し遂げてくださるでしょう。

「わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこにはアブの群れがいないようにする。こうしてあなたは、わたしがその地のただ中にあって主であることを知る。」 ー出エジプト記 8:22 新改訳

「わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこにはアブの群れがいないようにする」について、10の災いの1つはエジプトの地を滅ぼすためにやってきたアブの群れでした。ここで、アブの群れは悪霊や暗闇の力を描写しています。つまり、世界がさらに暗闇になっても、神は悪が触れることのできない場所を私たちのために聖別してくださることを意味します。

「しかし、主はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別するので、イスラエルの子らの家畜は一頭も死なない。」
ー出エジプト記 9:4 新改訳

「ただ、イスラエルの子らが住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。」
ー出エジプト記 9:26 新改訳

ここで再び、上の箇所において、神の子どもたちと世の子どもたちが区別されていることがわかります。10の災いを通して、神がイスラエルの子どもたちのために備えを与え、災いから守られた様子を見ることができます。世界が暗黒さを増す中、私たちは神に愛された者としてのアイデンティティを握り締め、神の御心は私たちを世話することであると信じることが重要なのです。

「モーセが天に向けて手を伸ばすと、エジプト全土は三日間、真っ暗闇となった。人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。」
ー出エジプト記 10:22-23 新改訳

「しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった」について、暗闇の災いは非常に圧倒的で、自然の光もそれに打ち勝つことはできませんでした。ですから、神の子どもたちが見た光は超自然的な光であったことがわかります。同様に、今日、世界で起こっていることを目の当たりにしても、私たちは恐れる必要がありません。私たちにはキリストの光があるのですから、身の回りのどのような暗闇も私たちを打ち負かすことなどできないのです!また、超自然的な光は、神からの啓示を受け取ること、また、あなたの家庭や心を主の光で満たしたいという神の望みの描写でもあります。


今年kairosの瞬間を体験する上で、イエスに目を留めることが私たちの軸となる

神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
ー黙示録 1:8 新改訳

新約聖書はギリシャ語で記されており、「Alpha」と「Omega」はギリシャ語のアルファベットで最初と最後に位置する文字です。この聖書箇所の背景を見ると、イエスはユダヤ人であるヨハネに話していたことがわかります。それ故、この会話は元々ヘブライ語で話されていたということになります。

ヘブライ語の「Alpha」と「Omega」は「Aleph (אֵ֥)」と「Tav (ת)」です。つまり、イエスはヘブライ語でご自身を「Aleph Tav (אֵ֥ת)」であると指し示されました。この署名は、他の聖書箇所の中にも潜んでいて、ほとんどの場合、そこにはより深い啓示や真理が含まれています。

イエスの署名である「Aleph Tav (אֵ֥ת)」が最初に言及されている箇所は、聖書の一番最初の節です。

創世記1:1において、神は天と地を造られました。これと同じ節で、その真ん中に3つの単語に挟まれる形でイエスの署名「אֵ֥ת」を見ることができます。これは、7本枝の燭台の描写であり、またイエスが全ての中心であり、万物はキリストによって造られ(コロサイ1:16)、キリストにあって成り立っている(コロサイ1:17)ことを象徴しています!

イエスの署名は伝道者の書9:11にも見ることができます!

イエスの署名が「時と機会」という単語の後にあることに気付きましたか?主("אֵ֥ת")こそ、私たちのために時と機会を造られるお方であることがわかります!

ヘブライ暦において、2023年は5783年です。ユダヤ教学者たちは、下二桁が83の年に着目するようにと学生たちに指導します。ヘブライ数字はヘブライ文字で表されます。また、各文字はそれぞれの重要性や意味を含みます。たとえば、数字の「5」はヘブライ数字で「hei (ה)」であり、「恵み」を意味します。数字の「8」と「3」は「pe (פַ)」と「gimel(ג)」です。それらを合わせて「pag (פַג)」と表記し、「青々としたいちじく」を意味します。青々としたいちじくには重要性が秘められています。なぜなら、主イエスはいちじくの木を用いて、信仰に関する重要な教えを説かれたからです。

「翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節(‘kairos’)ではなかったからである。するとイエスは、その木に向かって言われた。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」弟子たちはこれを聞いていた。」
ーマルコ 11:12-14 新改訳(注釈は著者による)

なぜイエスはいちじくの木を呪われたのでしょうか?

マルコ11:12-14に登場する木には「葉のほかには何も見つからなかった」とあります。これらのいちじくの葉は人間の努力や自己義認を描写しています。いちじくの葉が聖書で最初に言及されたのは、アダムとエバが神に背いて罪を犯した後で自らを覆った場面です。ですから、イエスがいちじくの木を呪われた時、主は類型学的に人間の努力や自己義認を呪われていたのです!

今年、正しいハプニングや機会へと導かれるために、自分の努力や自己義認に頼ることはしないでください!イエスに焦点を当て、主のご臨在に留まる時、あなたは努力することなく「kairos」の瞬間を体験するのです。


奇跡とブレイクスルーの時はすぐそこまで来ている!

今年、私たちにとって「pag (פַג)」は何を意味するでしょうか?

「pag (פַג)」という言葉は聖書で一度だけ言及されます。

「私の愛する方は、私に語りかけて言われます。
『わが愛する者、私の美しいひとよ。
さあ立って、出ておいで。
ご覧、冬は去り、
雨も過ぎて行ったから。
地には花が咲き乱れ、
刈り入れの季節がやって来て、
山鳩の声が、私たちの国中に聞こえる。
いちじくの木は実をならせ(פַג – ‘pag’)、
ぶどうの木は花をつけて香りを放つ。
わが愛する者、私の美しいひとよ。
さあ立って、出ておいで。』」
ー雅歌 2:10-13 新改訳(注釈は著者による)

雅歌は、花嫁に対する花婿の愛の書です。これは、教会である私たちへ向けられた主イエスの愛の描写です。

「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで」について、今年、主はあなたを高みへ引き上げようと呼んでおられます!

「ご覧、冬は去り、雨も過ぎて行ったから」について、冬と雨は、暗く、どんよりとした、悪しきシーズンを描写しています。これまでのシーズンが辛く困難なものだったのなら、これが主からあなたへの励ましです。これまでのシーズンは過ぎ去り、今年、主はあなたを喜びの場所へと導かれるのです!

「いちじくの木は実をならせ(פַג – ‘pag’)」について、いちじくの木が実「pag(פַג)」をならせる時、それは木が今年の収穫時期に多くの実をならせることを意味します。つまり、「pag(פַג)」の年に、私たちの収穫時期が近付いていることを意味するのです!


神の恵みがある所には神聖なる成功が見出される 

「しもべは主人のらくだの中から十頭を連れて出かけた。主人のあらゆる良い品々をその手に携えていた。彼は立って、アラム・ナハライムのナホルの町へ行った。彼は夕暮れ時、水を汲む女たちが出て来るころ、町の外の井戸のそばにらくだを伏させた。そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい(‘qarah’)、私の主人アブラハムに恵みを施して(‘hesed’)ください。」
ー創世記 24:10-12 新改訳(注釈は著者による)

創世記24章に登場する名もないしもべは、天のイサクであるイエスのために花嫁を探す聖霊として描写されています。

「イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカを迎えて妻とし、彼女を愛した。イサクは、母の亡き後、慰めを得た。」
ー創世記 24:67 新改訳

「彼女を愛した」について、これは聖書で愛が二番目に言及された箇所であり、教会へ向けられたイエスの愛を象徴するイサクのリベカへの愛を示しています。イサクはイエスの描写であり、リベカはキリストの花嫁である私たち教会を描写しています。

10-12節に戻りましょう。リベカがアブラハムのしもべに出会った時、「qarah」(好意的なハプニング)が起きているのがわかります。まず、彼女はしもべが祈り終える前に現れました。つまり、しもべが祈り終える前から、彼女はすでに井戸へ向けて移動していたことになります。次に、しもべは「水を汲む女たちが出て来るころ」に井戸に居合わせました。おそらく、井戸の周りにはもっと多くの女性がいたはずであり、イサクの花嫁候補の可能性のある人がもっといたはずですが、その日の夕暮れ時にはリベカしかいませんでした。それらのハプニングは人が計画し得るものではなく、ただ天のアバ父だけが組み合わせることのできる神聖なるハプニングでした! 

「そうして言った。『私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい(‘qarah’)、私の主人アブラハムに恵みを施して(‘hesed’)ください』」について、これは「qarah」と「hesed」(恵み)が最初に聖書で言及された箇所です。つまり、私たちが適切な時に適切な場所へ置かれるには、神の恵みが必要であることがわかります!

「その人は、ひざまずき、主を礼拝して、こう言った。『私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は、私の主人に対する恵みとまこと(‘hesed ve emet’)をお捨てになりませんでした。主は道中、この私を導いてくださいました。主人の兄弟の家にまで。』」
ー創世記 24:26-27 新改訳(注釈は著者による)

「主は…恵みとまこと(‘hesed ve emet’)」について、ここで「恵みとまこと」(ヨハネ 1:17)を意味するヘブライ語の「hesed ve emet」が初めて言及されました。このヘブライ語のフレーズは旧約聖書でも頻繁に登場します。この話における「hesed ve emet」の最初の言及は、教会へ向けられたイエスの愛は恵みのうちに見出されることを私たちに示しています。主の恵みを受け取るために教会に根差しましょう。恵み('hesed')があるところには、成功(‘qarah’)もあるのです。

神がくださる成功は、あなたが祝福され、故にあなたが教会を建て上げ、福音を支えるようになるためです。それが起こるのは、多くの人がイエスを救い主として知るようになるためなのです。


イエスの教会は霊の賜物の解放を通して繁栄する

「この人は、主が自分の旅を成功させて(‘tsalach’ – ‘euodoó’)くださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。」
ー創世記 24:41 新改訳(注釈は著者による)

聖書で繁栄が最初に言及されるのも、イエスと神の教会に関するこの章においてです。ギリシャ語で繁栄は「euodoó」であり、次の意味を持ちます。

1.  繁栄ある迅速な旅路を与え、直接的で容易な道へ導く
2.  繁栄し、成功する

真の成功は私たちの旅路に関係するのであり、目的地ではありません。主は旅路の間にあなたを繁栄させることを望んでおられます。つまり、あなたがゴールした時ではなく、現在いる場所を楽しむことを学んでほしいのです!この「kairos」の年、あなたは単なる出来事ではなく、質の高い「kairos」の瞬間に満ちた好意ある旅路としての適切なハプニングを体験するでしょう。

「らくだが水を飲み終わったとき、その人は、重さ一ベカの金の飾り輪と、彼女の腕のために、重さ十シェケルの二つの金の腕輪を取り…」
ー創世記 24:22 新改訳

名もなきしもべが贈ったリベカへの贈り物は、私たち教会へ神が与えてくださる聖霊の賜物を描写しています。

「金の飾り輪」について、それは物事を見分ける賜物を象徴しています。イザヤ11:3には「その上に主の霊が留まる。…主を恐れる、知識の霊である」(新改訳)とあります。ヘブライ語で「知識の(欽定訳聖書では「quick understanding 迅速に理解する」)」は「rîaḥ」であり、そこには匂いという意味もあります。

この賜物によって、あなたは善悪の区別を見分けるだけでなく、人々の動機や心に秘めたことなどのような人の霊を見分けることもできるようになります。それは、あなたに受け取る価値があるから受け取るものではなく、神から与えられる恵みの賜物なのです!

イエスの足元に留まることで主はあなたを適切な時、適切な場所へと導かれる

「さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」主は答えられた。『マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。』」
ールカ 10:38-42 新改訳

「あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています」について、私たちの多くはマルタのように、家庭、仕事、日々の需要など、様々なことを思い煩っています。

「しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました」について、ギリシャ語で「選んだ」は「eklegomai」で「選ぶこと、多くを取得すること」を意味します。つまり、私たちが担う責任、世話、関心事など、周囲で起こるあらゆる出来事の只中にあっても、主はただ一つの必要なことを私たちが選ぶよう望んでおられます。それは、私たちが主の足元に座り、みことばに時間を費やすことです。

「それが彼女から取り上げられることはありません」について、あなたがイエスの足元に留まり、みことばに耳を傾ける選択をする時、あなたからそれを取り上げられるものは何一つないのです!

イエスの足元に毎日座る選択をして、みことばで魂を元気づけましょう(イザヤ 55:2-3 新改訳)。聖書は、みことばのうちで時間を過ごして満たされた状態を「脂肪」、「凝乳」、「油」などのように表します(イザヤ55:2-3、ヨブ29:6)。これは、あなたがみことばを受け取る中で、イエスの油注ぎがあなたの人生のあらゆる分野に注がれる描写を示しているのです。

油注ぎ以上に、あなたがマリアのようにイエスの足元に留まる時、あなたは適切な時、適切な場所に置かれているのです。マリアは主のご臨在のうちで時間を過ごしたので、主イエスの葬りの日ために主に香油を注ぐよう導かれた唯一の人でした(ヨハネ12:1-8)。

ルカ10章に戻りましょう。マルタは仕えることに気を取られ、主に不満を言ったりもしましたが、聖書には、彼女がイエスに歩み寄った時に高みに上げられたことが記されています!

「…そして彼女は主の元へ上がっていった…」
ールカ 10:40 ESV訳より直訳

「…上がってくると彼女は言った…」
ールカ 10:40 DARBY訳より直訳

「…そして彼女は主の元へ上がって来た…」
ールカ 10:40 NASB訳より直訳

雅歌2:10-13の「…私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで」を参照すると、主のおられるところへ立ち上がって出ていくことが、問題から立ち上がるための方法であるとわかります。マルタのようにあなたがイエスに歩み寄る時、また、あなたが主のご臨在のうちで時間を過ごす選択をする時、あなたは心配や気を逸らす物事よりも上へと高く引き上げられるのです。


救いの祈り

「天のお父さん、今、イエス・キリストが私の主であり、救い主であることを告白します。主は私の全ての罪のために十字架で死なれ、あなたは主を死からよみがえらせてくださいました。私は十字架で流されたイエスの血の故に義とされ、罪は除かれました。お父さん、感謝します。イエスの御名によって。アーメン。」


終わりの祈り

「主よ、今週もあなたの人々の上に、このメッセージで分かち合った全ての祝福をお与えください。今週、あらゆる分野において、彼らが求める前にあなたが答えてくださることを祈ります。彼らを適切な時、適切な場所へ置き、昔の友人、同僚、親戚、または新たな出会いへと導いてくださいますように。主よ、今週、彼らにとってあらゆる機会の扉が開かれますように。彼らと彼らの家族にkairosを与え、今週一週間を通して、適切な時、適切な場所へ置いてくださいますように。イエスの御名によって。アーメン!」

このメッセージを通して、祝福されたことを願っています!是非メッセージ動画を視聴し、主があなた個人に語ってくださいますように。

 

 

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これらのメッセージ記録は礼拝中にボランティアによって記録されました。これらはメッセージを逐語的に表明するものではありません。特に表記しない限り、聖書箇所はすべて聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会からの引用です。国際著作権法に基づき、無断複写・転載を禁じます。著者からの書面による明確な同意を得た場合を除き、全体的・部分的を問わず、いかなる形においても複製が禁止されています。